japanese.china.org.cn | 14.09.2015

中国で働く日本人:「洗練された東アジア文化」構築を望む

タグ: 東アジア文化,グローバル化,伝統文化

筆者などは、日本文化を根本から追求しようとすると、結局中国文化にたどり着いてしまう。日本的美徳とされる「和を以て貴しとなす」は聖徳太子の言葉だが、これは「論語」に基づく言葉である。あるいは、日本の元号は多くが中国の古典が由来である。明治と大正は「易経」から、昭和は「書経」から、平成は「史記」と「書経」から、それぞれ引用されたものである。元号そのものも中国からの模倣である。

また、戦前において日本はアジアの覇者として「大東和共栄圏」を築こうとしたが、そのときのスローガンのひとつが「八紘一宇」である。これは「日本書紀」から引用されたものだ。しかし日本書紀はそもそも漢文であり、八紘一宇という言葉自体、古代中国で使われていたものである。この言葉を聞いて、今の日本人はもちろん、当時の日本人でさえピンとこなかっただろう。なぜなら日本語ではないからだ。日本がアジアの覇者たらんとするならばどうして日本語で表現しなかったのか。それは日本人にとって中国語、あるいはその向こうに広がる中国文化は、潜在的に畏敬の対象だからである。

枯山水は、中国文化を基礎としてはいるが、日本独特の表現と言っていいだろう。だが、先日法事で日本の禅寺に行った際、待合室に大きく掲げられ、毛筆で大書された文字を見てびっくりしてしまった。「喫茶去」と書かれていたのである。これを現代中国語で訳せば「お茶を飲みに行こう」となるが、多くの日本人はこれを見て「意味はよく分からないけど、きっとありがたい言葉なんだろう」と認識するに違いない。

そう考えると、「進化した」という表現で独自性を強調し、中国文化からの影響を軽視するのは、なんだか負け惜しみのような気がしてしまう。

さらにいえば、最近日本では「日本文化すごい、日本人すごい」という内容の書籍が多く出版されているが、そもそも彼らの愛する日本文化が美徳とするのは「謙虚さ」や「奥ゆかしさ」だったはずだ。言うこととやっていることが違っている。これは進化というより退化というべきものだろう。

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